JAMES BROWN BIOGRAPHY
「ジェームズ・ブラウン自叙伝 俺がJBだ!」(宝島社)→(現在、文春文庫で発売中)
"JAMES BROWN THE GODFATHER OF SOUL"(THUNDER MOUTH PRESS)
"LIVING IN AMERICA/THE SOUL SAGA OF JAMES BROWN((SERPENT'S TAIL)
"JAMES BROWN/A BIOGRAPHY BY GEOFF BROWN"(OMNIBUS PRESS)
"THE JAMES BROWN READER 50 YEARS OF WRITING ABOUT THE GODFATHER OF SOUL"(A PLUME BOOK)
参照にて作成。
初版ハードカヴァー(1986) | 2版ペーパーバック(1990) |
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3版ペーパーバック(1997) | 4版ペーパーバック(2002) |
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「俺がJBだ!」ハードカヴァー表紙 | 「俺がJBだ!」文庫版表紙 |
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"LIVING IN AMERICA"(1990) | "A BIOGRAPHY BY GEOFF BROWN"(1996) |
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1933年5月3日
サウスカロライナ州バーンウェルの松林にある小屋で生まれる。父親のJames Joseph、母親Susanの一人息子。本名は、James Joseph Brown, Jr.
1937年
極貧の家庭に育ち、母親が家を出て離婚。以後、父親が働きに出て不在がちとなり、この時の経験で、どんな出来事があっても「自分自身で乗り切る」能力を身に付けた。
1938年末〜1944年
ジョージア州オーガスタに移住。ハーモニカやオルガンを覚えて演奏するようになる。また、街角で兵隊相手にダンスをして小銭を稼ぎ、家賃の足しにしていた。小学校入学後、ブラウン・ファミリーでレコードもリリースし、生涯の重要な友人の一人となるレオン・オースティンに出会い、ピアノの演奏方法を教わる。
1945年〜1948年
自らの最初のバンド、”クレモナ・トリオ”を結成。エイモス・ミルバーン、チャールズ・ブラウン、ワイノニー・ハリス等の曲を演奏していた。最初の自作曲「Going Back To Rome」もこの頃作られた。
1949年6月13日
貧しさゆえの車上荒らしで逮捕。最低8年の懲役刑の判決が下り、ジョージア州ローマの少年院に入所。所内で、後にフェイマス・フレイムスのメンバーとなるジョニー・テリー他とゴスペルのカルテットを結成し活動。刑務所内では”ミュージック・ボックス”と呼ばれた。
1951年
刑務所がジョージア州トコアに移転。地元の野球チームとの交流試合でボビー・バードと出会う。
1952年6月14日
「神の為にゴスペルを歌う」と書いた嘆願書が認めれられ、仮釈放。自動車販売代理店で、洗車・清掃などの仕事をするかたわら、バードの姉、サラと一緒にエヴァー・レディー・ゴスペル・シンガーズというグループで活動。「His Eye Is On The Sparrow」という曲をアセテート盤に録音。
1952年末
バードのグループ、エイヴォンズに参加。周辺地区で演奏活動を開始。トコア・バンドと呼ばれるようになる。
1953年6月19日
ベルマ・ウォレンと最初の結婚。のちに、テディ(1954 - 1973)、テリー(1955 - )、ラリー(1959 - )の3人の息子を授かる。
1953年後半
バンド名を「フレイムス」に変更。
1955年中頃
リトル・リチャードのマネージャー、クリント・ブラントリーが出演契約担当となり、バンド名を「フェイマス・フレイムス」に変更。
1956年1月
キング・レコードのラルフ・バスがライヴ中にスカウトに訪れる。
1956年2月4日
オハイオ州シンシナティのキング・スタジオで、「Please, Please, Please」「Why Do You Do Me」「I Don't Know」「I Feel That Old Feeling Coming On」の4曲を録音。「Please, Please, Please」録音時、社長のシド・ネイサンに「馬鹿げた歌だ。同じ言葉の繰り返しだ。」と非難される。
1956年3月3日
「Please, Please, Please」c/w「Why Do You Do Me」のシングルで、レコード・デビュー。ビルボードR&Bチャート6位の大ヒットでミリオン・セラーとなる。
1956年末頃
ハンク・バラードの仲介で、ユニバーサル・アトラクションズのベン・バートが出演契約のマネージャーとなる。
1958年7〜8月頃
「Please, Please, Please」以降、ヒットが出ず、自費で「Try Me」を録音。
1958年9月18日
「Try Me」のデモ・ヴァージョンの評判が非常に良く、ニューヨークのベルトーン・スタジオで、正規リリース向けに再録音。10月に発売し、R&B1位、ポップ48位の大ヒットとなる。
1959年4月24日〜30日
リトル・ウィリー・ジョン他の前座として、初めてニューヨークのアポロ・シアターに出演。
1959年末頃
当時のプロレスラー、ゴージャス・ジョージのパフォーマンスにヒントを得て、マント・ショウを考案。ステージに取り入れる。
1959年12月
マイアミでインスト曲「(Do The) Mashed Potatoes」録音。シド・ネイサンに交渉したが、”インストは売れない”と却下され、ヘンリー・ストーンのデイド・レーベルからナット・ケンドリック&ザ・スワンズ名義で60年2月に発売。R&B8位のヒットとなる。
1960年2月20日
ファイヴ・ロイヤルズのヒットのカヴァー、「Think」を録音。R&B7位、ポップ33位のヒット。同日録音の「You've Got The Power」は、ジョー・テックスの前妻ビー・フォードとのデュエット。婚姻関係は無かったが、ビーとの間に息子のダリル(1960 - )誕生。ダリルは1990年代後半からブラウンのバンドにギターで参加。
1961年10月
全米ネットのTV番組、”アメリカン・バンドスタンド”に出演。バンドは無く「I Don't Mind」「Baby, You're Right」をリップ・シンクでパフォーマンス。
1962年10月24日
アポロ・シアターを借り切り、自主制作でライヴを収録。63年1月にリリースされ、ラジオではLP片面が全てオンエアされる程の人気となり、ポップ・アルバムチャートで66週チャートインし、最高2位となる。
1963年4月
有名なバラードのカヴァー「Prisoner Of Love」発売。シド・ネイサンから「お前にはバラードは歌えない。お前に出来るのは叫ぶことだけだ。」と言われたことに対するブラウン流の回答とも言える1曲。R&B6位、ポップ18位のクロスオーバーヒットとなる。
1963年末頃
父親のジョーとパーソナルマネジャーのベン・バートと一緒に、"FAIR DEAL RECORD CORPORATION"という会社を設立。キングとは"JAMES BROWN AND THE FAMOUS FLAMES"というグループでの契約だと判断し、ブラウンはフェア・ディールと契約。フェア・ディールはブラウンのレコードをマーキュリー/スマッシュ・レーベルで製作するように契約した。
1964年5月
ファンクの誕生を予感させる「Out Of Sight」を録音。ポップ24位(当時R&Bチャートは休止中)の大ヒット。
1964年10月
キング・レコードは、マーキュリー/スマッシュレーベルからブラウンのヴォーカル・レコードを今後発売することを禁止する命令を裁判所より入手。これ以降、ヴォーカルはキング、インストはスマッシュから発売される判決も出た。
1964年10月28〜29日
サンタモニカ公会堂で行われたTV番組「T.A.M.I. SHOW」に出演。ザ・ローリング・ストーンズ、チャック・ベリー、ビーチ・ボーイズ等の有名アーティストと共演。「Out Of Sight」「Prisoner Of Love」「Please, Please, Please」「Night Train」の4曲を披露。凄まじいグルーヴのパフォーマンスに会場は騒然となった。
1965年2月
ファンクというジャンルが確立されたと言える1曲「Papa's Got A Brand New Bag」を録音。6月に発売し、R&B1位、ポップ8位で、初のポップチャート・ベスト10ヒット。この曲のヒットで、ブラウンの名前は世界的に知られるようになった。
1965年6月
キング・レコードに戻り、10年間の新契約を結ぶ。印税は、最初7パーセントで、すぐに当時のポピュラー・アーティストとしては破格の10パーセントとなる。
映画”スキー・パーティ”公開。セーター姿でフェイマス・フレイムスをバックに「I Got You」を歌う。
1965年11月
「I Got You (I Feel Good)」発売。R&B1位、ポップ3位で、ブラウン最大のヒットとなる。
1966年4月
「It's A Man's Man's Man's World」発売。R&B1位、ポップ8位で、ブラウンを代表するバラードの1曲となる。
1966年5月1日
全米ネットのTV番組”エド・サリヴァン・ショウ”に出演。ステージと同じメンバーで「Papa's Got A Brand New Bag」「I Got You (I Feel Good)」「Ain't That The Groove」「It's A Man's Man's Man's World」「Please, Please, Please」を歌う。更に10月30日に再出演。「I Got You (I Feel Good)」「Papa's Got A Brand New Bag」「Please, Please, Please」「Prisoner Of Love」を歌い、最後に「Night Train」に合わせてダンスしながらステージを去るパフォーマンスを披露。
1966年10月
教育を受けることの重要性を説いた「Don't Be A Drop-out」を発売。ヒューバート・ハンフリー副大統領にも協力を仰ぎ、学校を回っての演説や奨学金の寄付など、キャンペーン活動に注力した。
1967年5月
ボビー・バードとの結婚の為、ステージを一時退いたヴィッキー・アンダーソンに替わって、マーヴァ・ホイットニーが加入。ブラウンの”彼女”となり69年末頃まで公私ともに行動するようになる。
1967年6月24〜25日
アポロ・シアターでの2枚目のライヴ録音。JBショウの全体像が掴める構成となっており、68年に2枚組LPで発売された。
1967年7月
「Cold Sweat」発売。独特のリズム・パターンと特徴的なホーンで、他のミュージシャンにも多大な影響を与えた1曲。R&B1位、ポップ7位。
1968年初頭
テネシー州ノックスビルのラジオ局を買収し、WJBEと改名。後にボルティモアのWEBB、オーガスタのWRDWも買収。
1968年3月5日
キング・レコード創業者のシド・ネイサン死去。ビジネスでは揉めたが、ブラウンにとっては父親のような存在だった。
1968年3月29日〜4月2日
アフリカのコートジボワールを訪問。実質滞在期間2日で、ライヴ2回とTVショウに出演。盛大な歓迎を受ける。
1968年4月4日
キング牧師がメンフィスで暗殺される。
1968年4月5日
黒人のリーダー暗殺により暴動が懸念されたが、ボストンでのライヴをTV中継し、再放送を繰り返したことにより、ボストン地区では暴動が起きなかった。
1968年5月8日
ホワイト・ハウス主催の晩餐会に招かれる。
1968年6月
ベトナムへの慰問ライヴ・ツアーを行う。まず、韓国のキャンプ地にてフルメンバーで1日2回公演。その後、沖縄、嘉手納基地でのライヴ終了後、メンバー14人を残し、ドラム、ベース、ギター、サックス、トランペットの5人とマーヴァとブラウンとでベトナム入り。サイゴンをベースに周辺のキャンプでライヴを敢行。炎天下で1日3回のライヴの日もあった。
1968年8月7日
「Say It Loud - I'm Black And I'm Proud」録音。「黒人であることを誇りに思うと大声で言え」という、当時としては過激な歌詞で誤解を招き、白人ファンを失ったと語る。R&B1位、ポップ10位。
1968年末
”キャッシュ・ボックス”誌が、ポップ部門のベスト男性ヴォーカリストに選出。
1969年前半
ニューヨークからジョージア州オーガスタへ引っ越し。
1969年3月
ブラウンの機会均等の主張のテーマ・ソングとも言える「I Don't Want Nobody To Give Me Nothing (Open Up The Door, I'll Get It Myself)」発売。
1969年7月6日
ジェフ・ベック、ジェスロ・タル、テン・イヤーズ・アフター、レッド・ツェッペリン、スライ&ザ・ファミリー・ストーンらと一緒に、ニュー・ポート・ジャズ・フェスティバルに出演。
1969年7月
別居中の妻ベルマと離婚。
1969年10月1日
ジョージア州オーガスタのベル公会堂でのライヴを録音。スタジオ録音と合わせて2枚組「SEX MACHINE」として70年9月に発売。
1970年3月9日
ジョージア州コロンバスのライヴで、バンド・メンバーがギャラ値上げを要求し、演奏拒否。ブラウンはメンバーを全員解雇。ブーチー・コリンズを含むキング・スタジオのセッション・バンド、ペースセッターズを飛行機で呼び寄せ、ライヴを行う。以後1年、このバンドで「Sex Machine」「Soul Power」「Super Bad」等の名曲を録音。
1970年10月22日
生まれ故郷のサウスカロライナ州バーンウェルで、デイドレ(ディーディー)・ジェンキンスと結婚式を挙げる(2度目)。ディアナ(1969 - )、ヤマ(1972 - )の2人の娘が誕生。
1970年11月29日〜12月15日
アフリカ・ツアー敢行。ナイジェリアのラゴスを皮切りにコートジボワール、ザンビアの9都市を回る。ラゴスでフェラ・クティのライヴを体験。アフロ・グルーヴを「Soul Power」等の楽曲に取り入れる。
1971年3月8日
パリのオリンピア劇場でライヴ。3枚組のアルバム「LOVE POWER PEACE」として発売予定だったが、キング・レコードがポリドールに買収された為、キャンセルとなる。92年に編集されてCD化。この直後、ブーチーらが抜け、バンド・メンバーが大幅に交代。
1971年4月8日
「I Know You Got Soul」(Bobby Byrd),「Escape-Ism」を新メンバーで初録音。後にCD化で未編集完全版が聞ける「Escape-Ism」は19分に及び、1曲を長時間演奏するフェラ・クティのスタイルの影響を強く感じさせる。
1971年7月1日
世界中に本拠地を持つ多国籍レコード会社、ポリドールに移籍。
1971年7月24〜26日
アポロ・シアターでの3枚目のライヴ・アルバム「REVOLUTION OF THE MIND」録音。
1972年5月9日
「Get On The Good Foot」録音。アフリカ・バムバータは、この曲でブレイク・ダンスが始まった、と主張している。
1972年10月
大統領選挙で、黒人企業支援を打ち出しているニクソン氏支持を表明。黒人からは”ニクソンの道化”と言われ、強い反発を受けた。
1973年2月7〜13日
初来日。東京(2回)、大阪、沖縄、横浜、名古屋の6公演。
1973年6月14日
息子のテディが、交通事故死。直後、ボビー・バードがJBショウから離脱。
1974年1月
2枚組のアルバム「THE PAYBACK」発売。50万枚を売り上げ、ブラウンのアルバムの中で最高売り上げを記録。
1974年2月10〜16日
2回目の来日。東京(2回)、札幌、大阪(2回)、福岡の6公演。
1974年9月
ザイールでのモハメド・アリ対ジョージ・フォアマンの試合前の音楽祭に、B.B.キングらと一緒に出演。
1974年後半〜
国税局との、69〜70年の税金滞納問題が本格化。ツアー経費をキング・レコードが立て替えした部分についての申告漏れとの指摘。実際は立て替え分がブラウンの印税から差し引かれていたが、これらの書類が無く証明が出来ず、係争が泥沼化。70年代後半の活動にも大きく影響を与えた。
1975年4月16〜22日
3回目の来日。東京(3回)、札幌、大阪の5公演。
1975年7月
自らが司会を勤める、ソウル・トレインを模したダンス番組”フューチャー・ショック”がオーガスタで収録開始。番組自体は人気があったがスポンサーが付かず76年で終了。
1976年5月
「Get Up Offa That Thing」が、R&B4位、ポップ45位で、久々のヒット。
1977年8月16日
エルヴィス・プレスリー死去。田舎出身の貧しい少年がゴスペルとR&Bを聞いて育ったという似たような境遇から、親近感を感じており、その死に非常に衝撃を受けた。追悼で「Love Me Tender」をシングル発売する。
1979年8月
ブラッド・シャピロのプロデュースで、アルバム「ORIGINAL DISCO MAN」発売。先行シングルの「It's Too Funky In Here」は、ブラウン流ディスコ・ファンクに仕上がっており、R&B15位のヒットとなる。
1979年12月10〜17日
4回目の来日。大阪、東京(3回)の4公演。中野サンプラザ公演を編集し、2枚組アルバム「HOT ON THE ONE」として80年8月に発売。
1980年6月
映画”ブルース・ブラザーズ”公開。牧師役で出演し、「Old Landmark」という古いゴスペルソングを披露。
1981年1月10日
2番目の妻、デイドレ(ディーディー)と離婚。
1982年2月2日
ロスアンジェルスでTV番組”ソリッド・ゴールド”に出演。ヘア・メイク担当のエイドリアン・ロドリゲスに一目惚れ。1984年に結婚(3度目)。
1984年6月
アフリカ・バムバータと「Unity」録音。アカペラ・パートがヒップホップのサンプリング・ソースとして注目される。
1985年11月
映画”ロッキー4”公開。試合前のアトラクション演奏で「Living In America」を披露。曲は映画の人気も手伝い、ポップチャート4位の大ヒット。
1986年
ロックンロールの殿堂、”ロックン・ロール・ホール・オブ・フェイム”入りの栄誉を授かる。また、70年前後の未編集、未発表曲を集めた2枚組のコンピレーション「IN THE JUNGLE GROOVE」発売。「Funky Drummer」をメインに、このアルバムが無ければヒップホップは成立しないと言われる程サンプリングされた。
1986年2月4〜8日
5回目の来日。大阪、東京(2回)の3公演。
1987年10月4日
6回目の来日。立川・昭和記念公園でのジャパン・エイドでの公演。
1988年9月24日
ジョージア州オーガスタの自分の事務所ビル内で開かれていた保険業者のセミナー会場にショットガンとピストルを持って現れ、「俺のトイレを使ったのは誰だ?」と叫び、トイレに鍵を掛けさせた後、小型トラックで逃走。警察とのカーチェイスの末、タイヤを打たれて停止し、逮捕される。この直前に、銃と幻覚剤の不法所持で告発されていた為、懲役6年6ヶ月の判決を受ける。
1991年2月27日
ブラウン仮釈放。
1992年2月25日
第34回グラミー賞で、生涯功労賞を受賞。過去に、「Papa's Got A Brand New Bag」(65年のベストR&Bレコーディング)、「Living In America」(86年のベスト男性R&Bパフォーマンス)、「STAR TIME」(91年のベスト・アルバム・ライナーノーツ)で受賞している。
1992年4月1〜4日
7回目の来日。札幌、東京(2回)の3公演。
1993年4月12〜22日
8回目の来日。横浜、仙台、札幌、大阪、東京、名古屋、福岡、広島の各都市を回る全国縦断ツアー。
1993年11月11日
生まれ故郷とも呼べるジョージア州オーガスタの9th Streetが、”ジェームス・ブラウン通り(JAMES BROWN BOULEVARD)”と名付けられた。
1994年8月19日
9回目の来日。"SAVE THE WORLD HERITAGE CONCERT"で、姫路城三の丸広場でのライヴ。
1995年4月11、12日
10回目の来日。大阪、横浜の2公演。
1996年1月6日
3度目の妻、エイドリアンが形成外科手術の後、心不全で死去。
1997年11月2〜8日
11回目の来日。大阪、名古屋、盛岡、東京、福岡の5公演。
1998年12月3〜9日
12回目の来日。大阪はZEPP(2回)、石川、東京は赤坂BLITZ(3回)の5公演。日本の屋内会場では初のスタンディングのライヴ。
2000年8月5〜9日
13回目の来日。サマーソニック2回(山梨、大阪)、八戸市公会堂、六本木ヴェルファーレの4公演。
2001年12月14日
バック・バンドのシンガー、トミー・レイ・ハイニーと4度目の結婚。しかし、この時点でトミーが別の男性との婚姻状態を解消しておらず、のちに法的に結婚が認められなかったと判断。2001年6月11日に息子のジェームス・ブラウン2世誕生するが、DNAテストではブラウンが父親とは判断されず。2004年1月に婚姻解消となっている。
2002年3月22、23日
14回目の来日。東京国際フォーラム2回。チャック・ベリーとのジョイント・コンサートだったが、共演は無し。
2003年10月2〜13日
15回目の来日。東京、福岡、大阪、名古屋、札幌の5都市7公演。
2004年12月
前立腺がんの手術を行い、成功。
2006年2月26日〜3月5日
16回目の来日公演。札幌、大阪、名古屋、東京(2回)の4都市5公演。日本での最終公演となる。
2006年12月25日午前1時45分
ジェームス・ブラウン、アトランタのエモリー・クロフォード・ロング・ホスピタルで死去。前日24日に肺炎で入院後、容態が急変。死因は、うっ血性心不全だった。遺体は、28日にニューヨークへ運ばれ、ハーレムのアポロシアターに安置、一般公開弔問により大勢のファンが訪れ、アポロ前から長い行列が一日続いた。そして、再びオーガスタへ運ばれ、29日は教会で近親者による葬儀が行われ、翌30日には、彼の名前が付けられたジェームス・ブラウン・アリーナでの一般公開弔問となった。8100人収容のホールが満員となり、入場出来ないファンが会場を取り巻いた。アル・シャープトン師が"HOMEGOING CELEBRATION"と名付けたこの弔問の模様は、地元TV局他で生中継され、マイケル・ジャクソン、ハマー、ジェシー・ジャクソンらもブラウンに最期の別れを告げに訪れた。弔問では、ボビー・バード、ヴィッキー・アンダーソン、ブーチー・コリンズ、フレッド・ウエズリー、マーヴァ・ホイットニー他による追悼ライヴがあり、ステージ前に棺が安置され、ライヴ終了後、ダニー・レイによって棺に最後のマントが掛けられた。